領国の支配を安定させた大内盛見は、応永十一年、国清寺を創建して、兄義弘の菩提(ぼだい)を弔い、大内氏の氏寺・氏神である氷上山(ひかみさん)興隆寺の本堂・二王堂・鐘楼・上宮・山王社などを造立し、盛大に供養会を開催して、一族および防長二国の武士を集めて、いわば、大内氏に対する番役として奉仕させ、分国内の人心一致の精神的支柱とした(河合正治『将軍と守護―室町政治の地方視点よりの考察―』。
豊前においても、国分寺領を再興し、一〇〇余年も荒廃に任せていた宇佐宮と弥勒寺の再興に力を尽くし、国内の武士をその造営や祭会に参加させて、大内氏の統制下に組み入れていった。
応永三十四年(一四二七)八月三日、新装なった宇佐弥勒寺金堂で、国分寺僧一〇人を招いて、一一〇人の僧による千部法華経の読経が行われたのも大内盛見主導による撫民(ぶみん)政策の一つであった。