大友親世が大内義弘の娘に生ませた長子孝親は、大友親著(つぐ・あき)の養子となっていたが、親著とそりが合わず、家督が八郎持直へ譲られたことに不満で、応永三十三年(一四二六)十一月二十九日、挙兵して、親著を殺害したと『九州治乱記』は述べている。
しかし、親著はその後一〇年以上も文書を発しているから死亡はしなかった。このとき、大内盛見は大軍を豊前東部へ集結させ、自身は鈴隈(熊)山(吉富町)に陣し、宇佐宮へ願文を捧げた。願成就のあかつきには参宮すると。大友孝親の乱の背後に盛見がいたと推測されている。孝親の挙兵が所期の目的を達すれば、豊前から大内軍が支援する手はずであったが、孝親がすぐ戦死を遂げたために、豊後侵入を思いとどまったのであろうと推測される。このことが、大内盛見と大友持直の対立の原因となった。
大内盛見は、三〇年近く在京して、将軍に近侍し、幕政にも参与したが、少弐・菊池・大友氏の蜂起によって、九州が危機に瀕(ひん)しているという九州探題渋川満直の知らせで、公方の許可が下り、帰国した。
このころ、盛見は国人の本領を安堵し、闕所地(けつしょち)を給地として預け置き、独自に段銭や人夫役を賦課して、一円領国化を進めた。応永二十五年(一四一八)八月、仲津郡中臣今男八町が宇佐宮一の御殿の定灯料所として寄進されているのも、盛見独自の権力行使の一例である。