『北肥戦誌』では「永享三年(一四三一)、大友一族である筑前立花氏の所領を、上意と称して押領したため、大友持直がこれを将軍に訴えた。大内盛見は、このため、将軍の勘気を受け、筑前国を追い出され、防州へも帰れず、肥前国へ行き、少弐満貞の子小法師丸に攻撃されて、上松浦へ落ち、更に筑前怡土(いと)郡萩原(はぎのはら)(二丈町)で、少弐軍に攻められて、大勢の家来とともに討ち死にした」と述べている。
『看聞御記』では三〇人が討ち死にし、中でも、杉七郎をはじめ杉氏一〇人、内藤・安富・益田・宗像・伊佐・吉田・平賀・山田・森・波多野らの重臣が一緒であったと記し、『満済准后日記』には、盛見の戦死を聞いて、将軍が「言語道断の次第、天下の安危はこの事である」と語ったと記している。
永享二年末、大内盛見は将軍御料国となっていた筑前国の代官として、年貢二〇万疋(二〇〇〇貫文)を京都へ送って、都の人々を喜ばせた。
このころ、大内盛見は、大友・少弐・菊池勢と合戦を続け、やむことがなかった。恐らく公方料国の代官として、大内氏が、年貢や段銭の徴収を強行したため、筑前の国人や農民が反発し、大友・少弐氏と同一行動をとって、大内氏に対抗したものであろう。
「大友・菊池・少弐等、内々ハ土一揆同心風聞候歟」(『満済准后日記』)と京都では噂した。大内盛見は、筑前立花城以下、大友氏の知行する所々の城をことごとく追い落としたという報告であったが、六月、怡土郡萩原で自刃したという急報が京都に届き、幕府首脳を驚愕(きょうがく)させ、その対策をあれこれと思案させた。
大内盛見の戦死で、豊前国でも大友・少弐軍が侵入し、守護代杉伯耆守重綱が長門国へ逃亡し、両国とも大内方の者は「一人もこれなし」(『満済准后日記』)といった状態となった。
杉重綱の花押
京都へやって来た大友氏の使者の弁解では「大内盛見が無理をしたのでこういうことになったのです。大友方から仕懸けたことではありません。これからのことは上裁に任せます。筑前国で前々より知行してきた所々を知行することだけで、そのほかのことは考えていません」というものであった。筑前国では、さすがの大内氏も、基盤がなく、地域的領主化を進めていた国人たちの反発に遭って、孤立してしまう弱さを露呈したのである。結局、豊前・筑前は従来どおり大内氏が支配し、大友氏は筑前国の所領を元のように知行するということになった。