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大内持世・持盛の争い

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永享三年(一四三一)六月、大内盛見が不慮の死を遂げたあと、盛見に嗣子が決めてなく、義弘の子である孫太郎持盛と九郎持世が家督の座をめぐって争乱し、そのため、分国が大いに動揺した。
 幕府は御料国代官を自刃に追い込んだ大友持直を討伐することに決し、持直とかねてから不仲である大友親綱・同親隆、菊池氏、安芸・石見の国人に出陣を命じた。菊池持朝には筑後国守護職を与えた。
 大内家督については、大内盛見が足利義持へ許可を求めていたのは、在京の大内氏代官内藤入道智得の申し入れによると、兄の持世へ長門・豊前・筑前の三か国を、弟の新介持盛へ周防国と安芸国東西条、満弘の子満世へ長門国内の一郡と石見国二万(にま)郡を与えるというものであった。
 ところが、足利義持の弟である新公方義教は、義持の内諾を覆し、兄の持世を大内惣領とし、持盛へ長門国以下を与えることにした。
 大内持世は、早速、豊前・筑前の奪回に乗り出した。

大内持世の花押

 筑前国では、旧分国の打ち渡しを拒む少弐氏の強い抵抗を受け、豊前国では、企救郡で、大友持直の舎弟掃部頭親雄および一族の狭間氏が籠城して抵抗し、毎日合戦を繰り返した。筑後国では、菊池氏が入国してきたため、大友持直は少弐氏と連合して大内・菊池勢と戦った。

大友持直の花押

 永享四年(一四三二)二月、公方義教の家督決定に不満な大内持盛は、持世方へ夜襲をかけ、惣領の座を奪う行動を起こした。大内持世は、わずか五〇騎ほどで山口を落ち、長門国椿へ逃れ、石見国境付近へ籠城し、後、石見国三隅(みすみ)城へ移った。大内持盛は豊前国を奪回して、朽網から周防国へ帰った。大友持直が大内持盛を支援していたらしい。
 この事態に対して、京都では「遠国の事は、少々上意のようにならなくても赦しおくことは、当御代ばかりではなく、尊氏以来のやり方である。持盛に大内家督を認めようではないか」という意見も出てきた。
 ところが、幕府の支援を得た持世が、石見・安芸の軍勢とともに、山口に侵入し、持盛を豊前へ敗走させた。
 幕府は、大友持直との衝突を避けるためか、大内持世が豊前へ渡ることを禁じ、持盛へ与えられていた長門国と安芸国東西条などを持世へ与えた。大内持盛は、幕府が危惧(きぐ)していたように、大友持直と結び、防長への帰国の機会をねらった。京都では、大内持盛が防長へ渡海したときには、豊後の日田・田原・佐伯らの幕府奉公衆や大友親綱を大内持世へ加勢させることにした。半年後、九州渡海の許可を得た大内持世は、安芸・石見・伊予三か国の国人の支援を得、筑後守護職を得た菊池持朝、豊後守護職を得た大友左京亮親綱の支援をも受けて、永享五年(一四三三)四月、豊前国篠崎(小倉北区)の合戦で、大内持盛を打ち滅ぼした。