同年八月、筑前国に侵入した大内持世勢は、備後・安芸・石見勢の応援を得て、少弐満貞・大友持直勢と戦い、少弐氏の拠(よ)る二岳(豊前香春二ノ岳カ)を備後守護代犬橋某の突入によって攻め落とし、更に大友親雄の拠る秋月城を攻めて、少弐満貞(四十歳)父子三人などをはじめとして数百人を討ち取った。大友親雄は夜の闇(やみ)に乗じて逃亡した(『満済准后日記』)。
大友持直は、十月三日、妻子を具して府内から乗船し、行方不明となった。佐伯・臼杵方面へ難を避けたらしい。大友親重(のち親繁)も日向へ亡命した。
十二月十五日、大友持直は、国人たちに呼び戻されて帰国した。親綱の父親著も一緒だった。このため、大友親綱は豊前国へ逃亡した。
幕府が補任した守護親綱に国人たちが従わなかったのである。このようなことは安芸国でも起こっていた。
幕府は再び安芸・石見・伊予の国人に命じて大内持世を加勢せしめ、大友持直を討たせることにした。
永享六年(一四三四)正月、九州探題渋川満直は少弐満貞の弟横岳頼房と戦い、討ち死にした。大内持世は、渋川満直の子万寿丸(十三歳)を探題に推挙し、教直と称した。こうして、大友・少弐・菊池兼朝勢と、大内持世・渋川教直・大友親綱・菊池持朝勢とが果てしなく合戦を繰り返した。