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鞍持の合戦

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永享六年九月六日、麻生上総介家春や小早川又太郎煕(ひろ)平が、大内持世に従って、鞍持において大友・少弐勢と合戦した。
 鞍持の地名は、筑前国怡土郡(前原市)にもあり、犀川町の鞍持山と特定することはできないが、鞍持山と考えたい。『太宰管内志』は、蔵持山について、「古は坊中九十六坊ありしと云、今十八坊あり、法頭を城台坊といふ、二月十五日に松会あり、山内に宇都宮氏五坊と云物あり、城台坊・真蔵坊・宝泉坊・梅本坊・中之坊是也、上宮より四方十八町は山領なり」と記し、天台宗彦山の末流で、中世、修験道が盛んで、宇都宮氏も一族の者を遣わして、この山を統制し、城砦の一つとしたらしい。
 この山の講堂の向かいに北山殿があり、北山に行く所に、五輪の塔が多くあり、この奥には更に多くの五輪塔があるという。修験者たちの墓塔のみではなく、戦死した武士たちの墓ではなかろうか。
 『看聞御記』によると、このころ、九州は少弐嘉頼・大友持直によって一統し、大内持世が討ち死にするのは必定であり、大内持盛の子(教幸カ)を家督としたという噂が京都で流れた。
  豊前国仲津郡内元永の事、領知相違有るべからず候、伊方の事は、当知行人ニ宛行う、代所を追て申し談ずべく候、いささかも、等閑有るべからず候、恐々謹言
       二月十六日
直親(大友親綱の弟カ)(花押)   
          佐田因幡守(盛景)殿
 これは、大友氏が豊前国を支配していたころ、佐田盛景の所領元永を安堵し、伊方庄は他人に与えたので代所を与えることを約束したものである。直親は大友氏の豊前国代官であろうか。