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姫岳の合戦

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永享七年(一四三五)六月、豊後府内から船出して行方不明となっていた大友持直は、臼杵・津久見堺の姫岳(標高六二〇メートル)に立てこもっていた。これを討伐するよう幕府の命令を受けた大内持世・河野通久・大友親綱ら、中国・四国・豊筑の軍勢が包囲攻撃したが、地の利に明るい豊後南部の国人に守られた大友持直は奥地に誘い込んで反撃し大勝利を得た。伊予の守護河野通久を戦死させ、大内軍を敗走させた。
 姫岳の攻防戦は、翌永享八年六月、城内の武士に対し、同族から調略を行わせ、通謀するものが出て、城は焼き払われ、大友持直は城を捨て、豊後奥地へ姿を消した。大友持直は、このあと、嘉吉の変に乗じて、対馬から筑前に侵入した少弐嘉頼や大内教幸らと挙兵するが、昔日の勢いはなかった。
 九州平定に功を致した大内持世は、嘉吉元年(一四四一)六月二十四日、公方義教に陪従して赤松満祐邸を訪れた。宴の席上で義教は満祐に斬殺され、持世も凶刃に遭って重傷を負い、七月二十八日絶命した。嘉吉の変という。