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大内教弘の治政

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大内持世が急逝したあと、盛見の子教弘(のりひろ)が大内家を継いだ。これを不満として、筑前守護代を務めた兄教幸が、大友持直・少弐嘉頼らと筑前で挙兵したが、間もなく鎮圧された。
 大内教弘は、分国法『大内家壁書』を定めて、分国中の行程日数と請文(うけぶみ)の提出期限を定めて、政務の迅速化に努め、上洛することもせず、分国統治に力を入れた。豊前では、宇佐宮の整備が終わると、弥勒寺や諸社の再興にとりかかり、人心の収攬(らん)に心を砕いた。
 また勘合貿易や朝鮮貿易に熱心で、その実権を競って、管領細川勝元と対立するに至り、伊予の河野氏を助けて、細川氏と戦うため、四国へ出陣したが、伊予興居(こご)島で病に侵されて、寛正六年(一四六五)没した。

大内教弘の花押