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大内政弘西軍へ

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二十歳で家督となった大内政弘は、この年の暮れ、榎本伊豆守国忠へ「仲津郡伝法寺庄内小犬丸名二十四石七斗足」の地を宛行っている(『萩藩閥閲録』榎本文書)。小犬丸の地名は現在行橋市泉に残っているが、当町草場にも小字があり、各所に小犬丸の地名が残っているから、特定することは困難であるが、当町のそれと想定しておきたい。
 大内政弘は、間もなく応仁・文明の大乱に巻き込まれ、上洛して、一方の大将として活躍し、大乱の帰趨(きすう)を握る存在となった。
 父教弘が姻戚河野氏を助けて、細川勝元と対立したから、政弘は応仁の大乱がぼっ発すると、細川勝元に対抗する山名宗全に招かれ、これにこたえて、河野氏とともに、船二〇〇〇艘に分国の兵二万余を乗せ、途中、細川方の防禦網を突破して、応仁元年(一四六七)八月、入京し、劣勢にあった西軍に新たな活力を与えた。