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大友親繁の豊前支配

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天皇と将軍を奉じる細川勝元は、大内政弘の領国周防・長門を伯父大内左京大夫教幸入道道頓(とん)へ与え、豊前を大友親繁へ、筑前を少弐頼忠(少弐教頼の子、のち政尚(ひさ)・政資と改名)へ与えて、政弘の足元をぐらつかせようとした。
 防長を与えられた大内道頓は、老齢を理由に、子の嘉加丸に家督を継がせたいと幕府に許可を求め、大内政弘の留守を預かろうとしたらしい。
 やがて、周防守護代陶弘護(ひろもり)と対立し、合戦となった。
  世上無為の事、去年一段、大内左京大夫政弘に仰せ合わされ候の処、先年の御下知の通りをもって、道頓入道以下、周防・長門両国に渡海すべきの旨、一牧軒道諲僧、上使と号し、近日なお所々に触れ廻ると云々、都鄙相違の条、然るべからず、所詮、道諲においては不日上洛あるべきの旨、下知せしむ、これ等の趣、便宜の輩に申し聞かさるべきの由、仰せ下さる所なり、よって執達件の如し、
     文明九年三月廿六日
大和守 (飯尾元連) 在判  
弾正忠 (布施英基) 在判
      大友豊前守(政親)殿
(『大友家文書録』、原文は漢文)

足利義政の花押

 この意味は、世の平和のため、大内政弘と将軍と話し合われたので、先年の大内道頓らと豊前から周防・長門両国へ渡海せよという命令を撤回する。僧一牧軒がなお所々へ触れ回っているというので、この僧を至急上洛させよ。周囲の人々へもこれを知らせよというものである。
 これ以前、豊前国は大友豊後守親繁(ちかしげ)によって占領されていたが、文明七年(一四七五)ごろ、親繁が返還したので、大内道頓に与えたところ、少弐頼忠が競望(けいもう)し、侵入してきたという。

大友親繁の花押