大内左京大夫入道道頓は、嘉吉の変(嘉吉元年=一四四一)後、弟の教弘と家督の座を争って挙兵し、失敗したあと、大友氏に庇護(ひご)されていたらしい。
応仁の乱が起こり、大内政弘が分国の兵を率いて大挙上洛した虚を衝いて、細川勝元の調略により、仁保加賀守盛安が動いて、防長両国を与えられ、備後の土一揆鎮圧合力のためと称して、文明二年(一四七〇)正月、安芸国廿日市へ出兵し、自ら安芸国境まで出陣した。
ところが、大内新介政弘の命令を受けた陶五郎弘護が、道頓と袂を分かち、彼を攻撃する形勢となったため、道頓は石見堺へ移動し、周布(すふ)左近将監元兼へ、長門国より陶弘護を挟撃するよう依頼し、石見津和野の吉見信頼の加勢を得て、長門国に侵入した。しかし、長門国賀年(かね)において陶弘護軍に敗れ、豊前へ逃亡し、馬ケ岳に籠城したが、文明三年正月二十五日自殺したという。大内道頓について、従来の諸書が誤った記述をしていることが、先掲の史料で明らかである。