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大内・大友の調略合戦

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父大内政弘に続いて、二十歳ぐらいの若さで大内家督の座に就いた義興(おき)は、前公方義材(き・あき)を奉じて入洛し、一〇年余りも幕政を牛耳ることになるが、その初期は、豊筑において、激戦を続けた。
 豊後の大友政親は、大内政弘の妹婿であり、年齢もほぼ同じであったこともあって、初めは友好的で、文明元年(一四六九)七月、少弐政資が対馬から宗貞国らに支援されて博多に上陸し太宰府へ入ろうとする行動に対し、留守を預かっていた大内政弘の代官陶弘護を援助したが、父親繁に戒められて、逆に少弐氏を援助するに至った。
 文明五年(一四七三)、六十一歳の親繁は豊前国の守護職などを政親に譲った。政親は文明七年ごろ、豊前守護職を大内道頓へ明け渡した(『大友家文書録』)。その後、豊後では大友政親と嫡子親豊(材親(あきちか)・義右(よしすけ))との間に、不幸な対立が生じた。いったん和解したかに見えた親子は再び対立し、ついに親豊は毒殺された(明応五年=一四九六=五月)。政親は家臣たちに見放され、筑前立花城の立花氏を頼って、舟で関門海峡を通過中、大内方に捕われ、赤間関の地蔵院に幽閉され、家臣とともに自刃させられた。
 親豊・政親の死で、大友家を親治の子義長が継いだ。実権は親治(政親の弟)が握っていた。大内義興は大友親綱の子大聖院宗心を還俗させて、大友家督に据えようと、大友氏加判衆の一部や、国東の田原親述(のぶ)兄弟を動かして画策した。これに対して、大友親治も大内義興を廃して、氷上山興隆寺の僧尊光(義興の弟)を大内家督とする工作を大内家重臣杉平左衛門武明らと進めたが、失敗し、杉武明は自殺し、尊光は豊後に亡命して、大内太郎左衛門高弘と称し、大友氏食客となって、帰国の機会を待つことになった。こうした両者の動きから、大内義興と大友親治の関係は悪化の一途をたどった。