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大友親治の豊前進入

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明応八年(一四九九)、前将軍足利義稙(たね)(義材(き)・義尹(ただ))が山口へ亡命してきた。義稙は管領細川政元と対立して、京都を逃れ、越中へ下っていたが、近江まで進出して、また敗れ、大内義興を頼って西下したのである。細川政元は、大友親治をはじめとする周辺の大名に呼びかけ、大内義興を討伐させ、公方義稙の上洛を阻止しようとした。

大友親治の花押


足利義稙の花押

 明応六年(一四九七)、大友親治は豊筑侵入を開始し、大合戦が始まった。少弐政資も同時に筑前高祖(す)城(前原市)に挙兵し、太宰府を占領した。しかし、大内義興に攻められて、岩戸城に籠城した少弐政資はここでも攻略され、肥前小城晴気城から多久城へと追い詰められて自殺し、少弐氏は断絶した。
 宇佐郡佐田庄(安心院町)に住んだ宇都宮泰景は、明応七年十月二日、豊後の大軍の侵入を受けて、菩提寺に、父俊景とともに立てこもったが、維持できず、隣村の飯田但馬守の城へ移って、大内軍の到着を待った。
 このときは、援軍が到着したものの、敗れて防長へ亡命したらしい。
 明応八年七月、佐田泰景らは、周防から帰国し、築城郡寒田まで進撃し、十月上旬、宇佐郡院内衆とともに妙見岳(院内町)に築城し、籠城した(第3図参照)。やがて、豊後一国の大軍が妙見岳を包囲し、切り崩しを試みたが、攻略困難とみて、速見・国東衆を残して豊前西部を征服したのち、再度攻撃をかけてきた。孤立した妙見岳城衆は降伏して豊後府内に幽閉された。

第3図 妙見岳城跡

 明応九年(一五〇〇)正月、佐田泰景は府内を脱走して佐田庄へ帰り、すぐ馬関の豊前衆のもとに駆けつけた。
 文亀元年(一五〇一)正月、亡命中の宇佐郡衆は、中津河へ渡海し、妙見岳城を奪回した。佐田泰景も遅れて中津河に上陸し、城井日向守直重(正房の後見)が立てこもる城井本庄城攻囲軍に参陣した。同年七月、馬ケ岳合戦では(第2図参照)、佐田泰景は守護代杉重清とともに、後陣として宇佐郡笠松に布陣し、豊後軍を撤退させた。

第2図 馬ケ岳城跡