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沓尾(くつお)崎の合戦

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文亀元年(一五〇一)閏六月二十四日、大内方の大将仁保左近将監護郷(もりさと)が、仲津郡沓尾崎(第4図参照)の上陸地点において、大友・少弐両軍に防がれて、死者三三人、負傷者三〇人を出す大敗を喫し、自身も戦死してしまった(『三浦家文書』八七)。

第4図 沓尾崎

 その一か月後の七月二十三日、小馬ケ岳の麓において、大内軍と大友・少弐連合軍との大規模な戦闘が行われ、両者多数の犠牲者を出して、大友方が豊前から退去した。
 将軍義稙を追放した細川政元は奇行が多く、永正四年(一五〇七)六月、薬師寺長忠らによって、湯殿で殺害され、政元の養子澄元も細川高国に敗れて近江へ逃れたため、前公方義稙に帰京のチャンスが到来し、大内義興に守られて、永正五年入京した。