この大兵を養う必要からか、大内義興は、従来の段銭に代わって、段米を徴収し、分国で実施していた撰銭方式二割銭(一〇〇文中二〇文は永楽銭・宣徳銭などの良銭であること)を京都においても実施させた。
段銭は毎年八〇文を春秋四〇文ずつ二回に分けて徴収した。各郡に二~七人の段銭奉行を置き、滞納が嵩(かさ)んだ場合は、土地を差し押さえ、年貢から未納分を差し引いた。
分国の農民は、年々大規模かつ長期化する戦争に、陣夫とか、城誘(こしらえ)人夫として駆り出されて苦しんだ。
宇佐郡妙見岳や京都郡障子ケ岳の築城には、豊前一国中の農民が動員されており、陣夫も険しい山坂を食料や武器などを運搬させられる辛苦は、私たちの想像を絶するものがある。
大永五年(一五二五)、大友義鑑(あき)が、大内義興の要請にこたえて安芸国に派兵するような、安芸国への戦争動員に疲れた筑前国では、大内勢の留守を衝いて、徳政令を要求する大規模な土一揆が起こり、張本人四人を誅し、土民への徳政を行わないと宣している(『大内家壁書』)。
大内義興の花押
このころには、生産力発達の遅れていた九州にも、有力名主層の指導のもとに、惣村・惣庄的な自治組織ができていたが、これら名主たちは守護代クラスの有力武士の被官となって、状況によっては、荘園領主に抵抗したり、守護大名に抵抗するようになった。