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朽網親満と道場寺

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宇佐宮『永弘文書』に次の史料がある。
  (首闕)道場寺まで御下候処、政定(田原)その面(おもて)ニ発足し候間、利行掃部助方ニ再三申され候通り承り及び候、内々御心得に入るべき子細候、何様此方の時宜、重々申入るべく候、御意を得べく候、恐々謹言
      二月廿八日(永正十四年)
氏輔(永弘)(花押)
        吉弘新兵衛尉(親就)殿御宿所
 この史料の意味は、豊後府内で反逆者として追討を受けた朽網(くたみ)兵庫頭親満(ちかみつ)が、豊前の道場寺(行橋市)に潜伏中、国東の田原親述(ちかのぶ)の弟政定が道場寺へ出かけ、朽網親満の家臣吉弘新兵庫尉親就(ちかなり)と、大聖院宗心を大友家督とする計画を練ることを、宇佐宮番長永弘氏輔から伝えたものである。大分県では道場寺を玖珠郡のことと誤って久しい。

朽網親満の花押


大聖院宗心の花押

 この後、朽網親満は伊良原に移り、彦山との旧縁を頼って帰国の機会をうかがい、永正十四年(一五一七)豊後府内に近い高崎山へ登って形勢の挽回(ばんかい)をねらったが、豊後の主な武士は、大友親治への忠誠を誓って動かず、親満は高崎古城を攻撃されて城を落ち、秋月・太宰府方面へ逃亡したようである。
 朽網氏は、鎌倉初期、大友氏に従って豊後へ下向し、九重山麓の直入郡朽網郷に住んで、大友氏譜代の家臣として仕え、十五世紀には家老となって、三代にわたって活躍した。朽網親満は、大友親治の家老を一三年間ほど務めた。その間、肥後の菊池氏を滅亡させることに殊功を挙げ、武将として名声を強固にしたが、大友親治の不興を買ったのか、家老の座を降ろされた。これを不満としていたか、大友親治の孫義鑑の初政である永正十三年、謀反人として追討された。
 親満が亡命した後も、玖珠郡の武士や国東の田原親述・佐伯惟治(これはる)らは連絡をとりながら反旗を掲げ続け、不穏な情勢であった。
 この事件について、大内義興は大友親治に好意的で、玖珠郡から宇佐郡へ逃げ込んだ親満残党の討伐に協力し、大友家加判衆から「両家無二御契約歴然候」(『永弘文書』三月二日付)と感謝されている。そうした情勢下で、道場寺・伊良原・彦山辺では、朽網親満をかくまう人々がいたのである。どのような人々であろうか。
 道場寺といえば、文明十八年(一四八六)三月、大内政弘が山口善福寺造営料所として道場寺領一二町余を寄進している。道場寺の前住持暁光が僧として「本末の旨」を知らず、俗人と異ならぬ生活をしているという理由で、寺領を没収され、その身は追放された。大内政弘の勘気を被ったのであろう。