大友義鑑は、大内義興病死のころから、筑前への帰国の機会をうかがっていた少弐資元を助けて筑前に侵入させた。このため、大内義隆はタブーであった筑前の大友領である立花城や怡土・志摩郡を収め、一〇〇年前の大内盛見時代の争乱を再現することになった。
天文元年(一五三二)七月、大友義鑑は、将軍義晴の命令と称して、義隆の悪行が顕然となったので、近々豊筑に発向する覚悟であることを安芸の熊谷氏へ告げ、安芸国方面でも、武田光和・尼子経久、四国の河野通直・大洲宇都宮・村上宮内大輔と申し合わせて行動するよう要請した(『熊谷家古文書』)。翌月、大友義鑑は「大内家に対し、種々遺恨、さらに差捨てがたき子細がある」(『平林文書』)ので、無足不涯を問わず出陣するように豊後毛井村衆へ催促している。
豊前方面の両軍の衝突は、天文二年大内軍の鹿越(かなごえ)城(日出町)占拠に始まり、これを奪回した大友軍が、宇佐郡の佐田庄に侵入し、佐田氏を追って妙見岳城を包囲し、更に下毛郡の万代平(まだいだいら)城(馬台城、耶馬渓町福土)を包囲した。これを豊前守護代杉重信が救援して撃退した(『尾形米二郎文書』)。翌三年、大内軍が速見郡に侵入し、大牟礼(むれ)山麓の勢場ヶ原での大規模な衝突があり、吉弘氏直ら多数を戦死させる勝利を得たが、立石峠を守っていた大友方の到着で、大内軍は敗北して撤退した。
大友義鑑の花押
杉重信の花押
この間、別府湾や豊後高田方面に大内水軍が姿を見せ、小競り合いが行われた。周防に亡命していた田原惣領家の親董(ただ)(親述の子)の帰国上陸作戦がとられたが失敗したらしい。
肥前方面では、少弐資元が追い詰められ、父政資が没した多久専念寺で、天文五年(一五三六)九月自殺し、少弐家再興の野望は成らなかった。
このあと、大内・大友両氏は、将軍義晴の斡旋(あっせん)によって和睦し、筑前秋月へ、大内・大友両家の家老が会合して、和睦の誓紙を取り交わし、大内義隆滅亡まで約一二年の和平が訪れる。