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豊前の人々の雑多な負担

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しかし、豊前の人々の平和は長くは続かなかった。山陰から安芸方面へ進出してきた尼子経久との果てしない戦争に動員され、段銭・陣夫・城誘(こしらえ)が強化されたからである。
 このころ、椎田町は大内氏直轄領として、左に示すようにさまざまな負担を強いられた。これを町済銭と称した(『友枝文書』豊前市史)。
  屋敷銭(間別銭)  一〇一間 三五戸分  五貫五〇文 間別五〇文
  舟別銭  二九艘 内四艘は湊役人用   一五貫文 舟別六〇〇文
  計屋(はかり)銭             三〇〇文
  商人別銭 二三人            六九〇文 人別三〇文
  小肴                  四一二クビリ
  鯛                   三一二喉
  川口銭                 米の積出銭
  田    一町
 この椎田町済銭に関連して、次の史料が『友枝文書』に見える。これを掲げて、その意味を探ってみよう。
  きっと仰せ下され候、よって椎田済銭の事、当年も御米買得有るべきの由に候、彼の儀、ここ元において宗秋(友枝)に対し仰せ出さるの処、船失(う)せ候間、去年よりは済銭減少すべきの由言上し候、外においては、料足、限りある御米の事、買い調えらるべし。外より地下未進これ有るの由申さるとも、御許容あるべからず候、
   次に和市の事、今居津の給人千手与一左衛門へ対し、奉書を成され候、則ち相尋ね申付けらるべきの旨、遅々(ママ)候はば、其の方の越度たるべきの由に候、恐々謹言
     九月十四日                         実任(沓尾)(花押)
       友枝隼人佐殿                       守郷(花押)
 ここでは、椎田町代官である友枝隼人佐宗秋へ、築城郡段銭奉行と考えられる沓尾実任(さねとう)・某守郷両人が「椎田済銭で米を買い、山口へ送るよう指示があったが、船が減少したとか、未納者がいるとか弁解しても、容赦しない。今居津の代官千手与一左衛門(筑前嘉摩郡の武士)へ、米相場を伝えているので、彼に尋ねて、米を買い調え、早急に送れ」というものである。なぜ、運賃が高くつく米を買い調えるのであろうか。
 このころ、農村では、どのような土地制度となっていたのであろうか。
 上毛郡薬師寺村(豊前市)の名田は次のように変化していた。
       喜間名             溝部掃部允
                    作人
                       助兵衛
  田数弐町四反三十代  分米三石六斗四升
   一斗一升   きよふふん(刑部分)  三斗三升三合 大麦小麦半分宛
   清五百文   屋敷銭    四百廿四文  水田銭
   清五十文   小屋敷    百文     節料銭
   五十文    鳥の代    清百廿二文  うき免公事銭
   九十日    定夫日数
 薬師寺村喜間名は、田数二町四反三〇代を有し、年貢米は一反につき一斗三升ほどで高いものではない。名主職は溝部掃部允(じょう)という武士と、助兵衛という農民の二人が所持していて、両者がどのようにこの名田を分割所有しているかは明らかでない。「きよふふん」(刑部分)は他名にもみられる。反別五合足らずで微額である。神主であろうか。麦地子は反別一升五合ほどであるから、これも低額である。屋敷銭は永楽銭五〇〇文だから米五斗ほどにあたる。五反に近い敷地があったのではなかろうか。ただし、他の名田も一律に五〇〇文である。水田銭とは井料であろうか。節料銭も一律に一〇〇文である。季節ごとに鏡餅やあらまきなどの品物を領主に納めていたのが銭で納めるようになっている。鳥の代も一律五〇文となっている。山鳥を納めていたのが銭納となったのであろうか。うき免公事銭とは、不安定な田畠にかかる雑税を銭で納めるようになったらしい。定夫とは、名田に割り当てられた年間夫役で、反別だと年三、四日になる。夫役の比重が大であることが分かる。土地生産力が低いから、労働地代を納めることになり、それだけ、農民の隷属性が強かったと考えられる。