大内義隆は、初期一〇年ほど、九州の大友氏、北の尼子氏と交戦を続けたが、自ら出陣した出雲の富田(とだ)月山城攻めで、尼子晴久に敗北してから、戦争は若い家老で血気盛んな陶隆房らに任せ、自身は山口にいて、京都から下ってきた公家たちと都の文化に耽溺し、従(じゅ)二位大宰大弐に官位が進むと、公卿の服装をし、儒学を講じ、中国語を学び、諸芸の達者を集めては、連夜遊芸を楽しんだ。
陶隆房は、主人義隆の振る舞いに批判的で、しばしば義隆を諌めたが、義隆は一向に生活を改める様子を見せなかった。そのため、陶隆房は義隆に対して反抗的な行動をとるようになった。
これを義隆に告げて、隆房討伐を進言していた豊前守護代杉伯耆守重清や長門守護代内藤興盛らも、やがて主人義隆を見限って、逆に陶隆房に与して、義隆を攻めるに至った。
陶隆房反逆のきっかけは、相良武任との対立にあった。
大内義隆は祐筆相良正任(とう)の子武任を重用したため、重代の家老である陶隆房や杉重清らの意見が届き難い状況になって、義隆と陶隆房との溝を広げることになった。