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陶・内藤・杉氏の反逆

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天文十九年(一五五〇)八月、陶隆房が相良武任を襲う準備をしているという噂が流れ、山口の街は騒然となった。同年十一月、隆房は本領富田(とんだ)若山城へ帰り、翌年二月の氷上山二月会の大頭役も務めなかった。
 陶隆房は家臣と評議して大内義隆・義尊を殺害して、豊後から大友義鎮(しげ)の弟晴英(はるふさ)を迎えることに決し、使者を豊後に送って、晴英の同意を得た。八月二十日、陶隆房は行動を起こし、同二十九日、陶・杉・内藤ら五〇〇〇余が山口に侵人した。山口には三〇〇〇余騎が義隆を護衛していたというが、前夜のうちに二〇〇〇余に減り、義隆は築山屋形から法泉寺に移っていたが、豊後大友家を頼って落ちることにし、徒歩で長門仙崎に着き、乗船したが逆風で進むことができず、漕ぎ戻って大寧寺へ入り、切腹した。遺児義尊も翌九月二日殺害された。
 防長芸石豊筑肥七か国に及ぶ守護職を手中にした大内氏が家臣に見放されて、簡単に滅び去ったのはなぜであろうか。
 陶隆房の挙兵に与同しなかったのは、筑前の相良武任・杉興運(おきゆき)、石見の吉見正頼、安芸の平賀隆保らで、毛利元就も隆房と同一行動をとった。陶・内藤・杉氏は防長豊で守護代の座を世襲しており、大内氏の最も信頼していた家臣であったが、彼らが一度反旗を翻すと、大内氏はたちまち砂上の楼閣のような状況に置かれてしまった。杉氏は豊前国で百数十年、守護代の座にあって、国内の中小名主層を被官として、主家を脅かす兵力を創出していたのである。

陶隆房の花押


大内義隆の花押