陶隆房は、天文二十年(一五五一)、挙兵するにあたって、義隆を廃し、義尊を擁立するか、両人を殺害して大友晴英を迎立するかを家臣たちに諮り、晴英迎立の評議に隆房も同意して、使節麻生弥五郎を豊後に遣わし、晴英の同意を取り付け、杉重矩(しげのり)・内藤興盛・毛利元就の支持を得て、義隆・義尊父子を滅ぼした。
晴英の渡海について、兄大友義鎮は反対したという。理由は、君臣の道に背いた人たちによって、大内家督の座に就けられても永続するはずがないというものであった。晴英は「武将の家に生まれたからには、一度は家督の座に就いてみたい。たとい将来どうなろうとも、後の苦労は厭(いと)わない」と強く希望して、兄を同意させたという(『小寺文書』)。
天文二十一年(一五五二)三月、大友晴英は迎えの隆房らの船で、防府多々良浜に上陸し、山口に入って大内氏を継ぎ、名を大内義長と改めた。
大内義長は、入国するまでの半年間に陶晴賢(かた)(隆房の名を忌み、将軍義晴の一字をいただいて、晴賢と称したらしい)が与えた安堵状を追認し、「大内義隆の安堵状の旨に任せて」当知行を安堵していった。
大内義長の花押