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杉伯耆守重矩の誅伐

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天文二十一年十月、陶晴賢は、豊前守護代杉重矩(のり)(重清)を逆賊の汚名を着せて自殺せしめた。杉重矩が、以前から晴賢のことを讒言(ざんげん)していたことが判明し、そのため晴賢が主人殺しの謗(そし)りを受けるに至ったと、その責任を杉重矩に転嫁したのである。

杉重矩の花押

 天文二十二年十月、吉見正頼が石見国津和野三本松城に挙兵し、長期戦となった。吉見氏は石見国の有力国人で、応仁の乱後、吉見信頼が陶弘護と対立して、殿中で刃傷に及び、双方切り死にする事件があって以来、陶氏とは相いれない関係にあり、また大内義隆の姉を吉見正頼が妻としていることからも、陶晴賢の反逆を憎んでいた。
 安芸の土豪毛利元就も一度は陶晴賢の反逆に加担したが、やがて、晴賢の悪逆を喧(けん)伝し、吉見正頼とも通謀して、安芸国の簒奪(さんだつ)をねらった。