ビューア該当ページ

陶晴賢の滅亡

687 ~ 687 / 1391ページ
天文二十三年(一五五四)五月、陶晴賢が吉見討伐に熱中しているすきに、毛利元就は、家臣小寺元武を豊後に派遣して、若い新領主大友義鎮に働きかけて、大友・毛利両家が、先祖の中原親能と大江広元がともに中原広季(すえ)を養父とする兄弟の関係にあることを縁として連合し、毛利氏が主家大内氏の仇を討つと称して、周防・長門両国を自由に支配し、大友義鎮が豊前・筑前を支配するという密約を成立させて挙兵に踏み切った。大内義長・陶晴賢は吉見正頼と講和して、毛利元就討伐に傾注することにした。
 弘治元年(一五五五)九月、陶晴賢は厳島へ渡り、毛利方の宮尾城を攻撃しようとした。十月朔日未明、毛利元就・隆元父子に急襲されて、島の西端へ追い詰められて自殺した。まだ三十五歳の働き盛りであった。
 その七日後、晴賢の子長房も、富田(とんだ)若山城を豊前守護代杉重輔(しげすけ)らに攻められて滅んだ。杉重輔は父重矩の仇を討ったのである。ところが、杉伯耆守重輔も翌弘治二年三月二日、長門守護代内藤隆世に、山口の屋敷を攻められて滅んだ。内藤隆世は陶長房の母の弟であった。
 このときの合戦で山口市街は灰燼(かいじん)に帰した。杉氏のこの一連の動きは、毛利元就の調略を受けて、大内義長・内藤隆世に疑惑を持たれたらしい。

杉重輔の花押