弘治元年(一五五五)九月、陶晴賢は厳島へ渡り、毛利方の宮尾城を攻撃しようとした。十月朔日未明、毛利元就・隆元父子に急襲されて、島の西端へ追い詰められて自殺した。まだ三十五歳の働き盛りであった。
その七日後、晴賢の子長房も、富田(とんだ)若山城を豊前守護代杉重輔(しげすけ)らに攻められて滅んだ。杉重輔は父重矩の仇を討ったのである。ところが、杉伯耆守重輔も翌弘治二年三月二日、長門守護代内藤隆世に、山口の屋敷を攻められて滅んだ。内藤隆世は陶長房の母の弟であった。
このときの合戦で山口市街は灰燼(かいじん)に帰した。杉氏のこの一連の動きは、毛利元就の調略を受けて、大内義長・内藤隆世に疑惑を持たれたらしい。
杉重輔の花押