陶晴賢滅亡後の大内義長は、内藤隆世、小原安芸守隆言、吉田若狭守興種、波多野大和守興滋(おきしげ)、仁保隆慰(やす)ら防長の国人とともに防戦に努めたが、毛利元就の調略と力攻めの両面作戦によって一年半後に滅び去った。この間、筑前・豊前では、秋月文種・野仲重兼・山田隆朝らの有力国人が、毛利元就とも連絡し合って、大内義長による支配から独立しようという動きを見せ、徐々に無政府状態となっていった。弘治三年(一五五七)二月、野仲重兼・仲間弾正忠らは下毛郡の万代平(まだいだいら)城を攻め、城内への調略によって城督豊田対馬守鑑種を殺した(『友枝文書』)。このとき、大友氏は「御両家御一体」と称して兵を送り、野仲重兼を屈伏させたらしい。野仲重兼は五月、広津城に籠城して、山田隆朝勢を撃退している。また秋月文種は仲津郡に進出して馬ケ岳を攻め、大内義長方の城督神代(こうじろ)余三兵衛尉弘綱を降伏させ(「萩原文書」)、家臣の三奈木甲斐守・ヨシカイ某を城督として一〇〇人ほどに守備させた。
大内義長は毛利元就に赤間関まで追い詰められて、兄大友義鎮に救援を頼んだが、毛利氏と密契を結んでいる大友義鎮は動かず、弟義長を見殺しにした。その直後の四月六日、大友家加判衆臼杵鑑続(あきつぐ)は、佐田隆居(すえ)に対し、宇佐郡の闕所地について尋ね、引き続いて郡代の役目を命じて、豊前支配に乗り出した。