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山田隆朝の挙兵

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弘治三年五月十八日、山田安芸守隆朝・仲八屋備前守英信・如法寺・仲間らが城井左馬助正房の宅所へ押し寄せ、放火して退却した。城井衆との合戦で山田方は戦死一五、負傷七〇余を出した。
 『紀井宇都宮系図』では、城井正房は弘治三年七月五日、八十歳で没したという。城井衆との合戦の一か月後の六月十八日広津治部大輔鎮頼の宅所(天仲寺山城)へ山田隆朝勢が押し寄せた。広津城には杉因幡守・佐田隆居・野仲兵庫頭重兼・福島安芸守ら下毛・宇佐郡衆が籠城して、これに備えていた。山田隆朝は、この数日、上毛郡の人々を動員し、同心しなければ、討ち果たし、その余は人質に取って猛威をふるった(『佐田文書』)。
 六月十八日・十九日二日間の攻防で、山田勢は戦死一〇〇人、負傷二〇〇人余を出して退却した。この日宇佐郡に入った豊後国東(くにさき)郡の田原親宏が指揮する約四〇〇〇の軍勢は、六月二十日、上毛郡一帯に放火し、翌日、山田城を攻略した。山田隆朝は山中に消え、防州へ亡命した。生年十一歳の嫡子満千代丸は、下毛郡の秣(まくさ)刑郡に殺され、首を田原親宏から玖珠郡に動座していた大友義鎮のもとへ送られた。山田方の者八〇〇余が残党狩りによって首を取られ、女子も方々で略取され、上毛郡の男女四分の一が逃散(ちょうさん)などでいなくなったという(『永弘文書』)。