今度、馬岳小城切岸において、最前より御放戦の趣、比類無く候、殊に小城調略の儀、御一人の御才覚、他に異なり候、御粉骨の次第、注進を遂ぐべく候、恐々謹言
「弘治参」七月九日
(田原)親宏(花押)
佐田弾正忠(隆居)殿御陣所(『佐田文書』、原文は漢文)
右の史料は、馬ケ岳攻略の際、小城を調略によって切り崩したことを田原親宏が賞したものである。
田原親宏勢は、このあと田川郡から筑前馬見山(うまみやま)へ進み、秋月文種が籠城する古処山(こしょさん)を背後から攻めようとした。しかし、七月七日、古処山は家臣の中から裏切りが出て、豊後表陣衆を誘導したため、文種は敗死し、子息三人は防長へ逃れて、豊前・筑前は大友氏の支配するところとなった。