秋月文種討滅後も、その残党とも目される人々の抵抗が続き、田原親宏は築城郡別府に陣を進め、小倉津の敵軍を討伐して別府に帰陣している。
永禄二年(一五五九)八月、西郷遠江守隆頼が挙兵した。毛利元就の調略に応じたらしい。田原親宏は、豊後速見・国東郡衆に宇佐・下毛郡衆を加えて、西郷隆頼の要害を攻略した。要害とは犀川町の不動ケ岳のことであろうか(『豊前志』)。この戦いで、佐田隆居は、西郷隆頼の弟弥三以下四人の首を討ち取ったが、被官一八人を負傷させる激戦を演じた。
西郷隆頼は城を落ちて、毛利氏のもとへ亡命した(『西郷文書』)。
このころ、門司城・花尾城(八幡西区)・香春岳城でも牢人が籠城していた。
九月二日、田原親宏は、佐田隆居と安心院興生(おきなり)を馬岳城番として残し、門司城・花尾城攻略に向かった。
九月二十六日、門司城が陥落し、落ちゆく波多野大和守興滋(おきしげ)父子や須子(すず)大蔵丞を討ち取り、怒留湯主水(ぬるゆもんど)を門司城番として、豊後勢は帰国した。
波多野興滋は大内義長の奉行衆であったが、毛利元就の調略に応じて毛利方に降り、門司城督を務めていた。