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門司城争奪戦

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永禄三年(一五六〇)十二月、毛利元就は、仁保右衛門大夫隆慰(たかやす)を渡海させ、門司城を奪回した。以後、仁保隆慰は永く豊前で活躍することになる。彼も大内義長の奉行衆であったが、毛利元就の調略に応じて、毛利方となり、弘治三、四年には奉行衆をも務めた。
 門司城が奪取されたと知らされた大友義鎮は、永禄四年正月、吉岡長増・臼杵鑑速の二家老と田原親宏・志賀親度(のり)・朽網鑑康ら六国衆(くにしゅ)に一万五〇〇〇余の兵をもって、門司城奪回のため、豊前への出陣を命じた。
 大友国家挙(こぞ)っての大軍は、抵抗する香春岳・松山城・花尾城を攻略して、九月ごろ、門司城に接近し、布陣した。
 毛利元就も、子息隆元に一万八〇〇〇余の兵をもって救援に向かわせ、隆元の弟小早川隆景に一万余の兵を割いて渡海させた。隆景勢を門司へ渡した児玉内蔵丞就方・乃美兵部丞宗勝・村上元吉らの水軍は、蓑島辺を漕ぎ回り、豊後水軍と戦って、九月、舟八隻を捕らえ、水主一三人を生け捕り、十月、今井・元永に待機していた敵船数十隻を拿捕(だほ)し、京都・仲津の二郡を占領して、豊後との通路を遮った。

小早川隆景の花押

 連日、野臥(のぶせ)り合戦を続けてきた豊後勢は、春以来の長い豊前在陣に疲れ、はかばかしい戦果もなく、迫りくる寒気の中で、後方を分断されて、撤退を決し、十一月五日の夜、ひそかに陣山を下り、門司浜・大里・赤迫を経て、貫(ぬき)山を越え、彦山下を通って、苦難の末、日田にたどり着いた。宇佐郡衆も二老に従って日田まで退いたが、田原親宏ら北浦辺衆は、貫山から分かれて、黒田原・天生田・国分寺原を通って国東へ向かったため、道待ちしていた杉因幡守隆哉・浦兵部・野(能)島・来島(くるしま)勢数百人に終日、付け送られ、多数の犠牲者を出して帰国した。杉因幡守隆哉は大内義長時代は、宇佐郡妙見岳城督であったが、弘治三年(一五五七)六月一日、武蔵田原親賢の入国で下城し、広津城に籠城して、大友方として行動していたが、やがて毛利方に寝返った。犀川町の大村に因州城があったと『豊前志』は記しているが杉隆哉が拠った城であろう。仲津・京都郡の地理に詳しい杉隆哉の案内で、毛利水軍が北浦辺衆を待ち伏せしていたのである。
 大友義鎮は、このころ出家し宗麟と号した。まだ三十歳そこらの若さであった。また、臼杵の丹生(にう)島に築城して住んだという。丹生島城は、弘治三年五月、義鎮が玖珠郡へ出張して留守中に焼失したという記事もあるから、この時期に大修築し、毛利水軍の攻撃に備え、九州探題の居城にふさわしい体裁を整えたものであろう。
 門司城敗戦は、大友義鎮にとって、初めての敗戦であり、彼のプライドをいたく傷つけた。出家したのも、その精神的動揺を示したものと考えられる。