大友宗麟に、更にショックを与えたのは、高橋鑑種(あきたね)の離反である。高橋鑑種は、大友一族一万田鑑相(いちまだあきすけ)の弟で、宗麟の父義鑑のころ、筑前の大蔵一族高橋家を継がせ、鑑の一字を与えて、鑑種と称させた。宗麟初政に肥後国で起こった菊池義武の乱や小原(おはら)鑑元の乱鎮定に活躍したため、筑前宝満岳城督を命じ、叛服を繰り返す秋月・筑紫氏へのにらみとした。毛利元就は家来の山田満重・有田加賀守を博多へ派遣して高橋鑑種への調略を行わせ、永禄五年(一五六二)の暮れ(『山田文書』九九、萩藩閥閲録)、これに成功した。鑑種内応の原因は、兄鑑相が反逆の廉(かど)で殺されたこと、更に美人で評判の兄の妻を宗麟が愛妾としたことで、宗麟を恨んだと俗書は述べている。最近では、奉行衆として仕えた大内義長を兄宗麟が見殺しにしたこと、筑前一国の支配をねらう野心(荒木清二「毛利氏の北九州経略と国人領主の動向―高橋鑑種の毛利氏方一味をめぐって―」『九州史学』九八号)などが指摘されている。
門司城敗軍をきっかけとして、高橋鑑種をはじめ、筑前・豊前の牢人(旧大内氏家臣)が次々と蜂起したため、大友宗麟は門司城再征を命じた。門司敗軍後、豊前では、西部の企救・田川・京都・仲津の諸郡は毛利氏の掌握するところとなっていたから、再征軍は、また香春・松山城を攻略して門司城へ向かわなければならなかった。