第5図 松山城跡
永禄五年(一五六二)九月朔日、松山城を包囲した豊州勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。戸次伯耆守鑑連らは門司城下まで進撃し、十月十三日、大里において、門司城将冷泉(れいぜい)元豊(二十五歳、大内一族)以下を討ち取る戦果を挙げ、十一月二十六日にも、終日、門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出した(『浦文書』萩藩閥閲録)。
翌永禄六年正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった。ここに、京都から公方義輝(てる)の斡旋が入り、聖護院道増・久我通興が両者の間を往復して調停した。毛利元就は「近頃、迷惑至極に候へ共」と、しぶしぶ調停に応じた。その実、毛利元就と吉川元春父子は、出雲白鹿(しらが)城(松江市)攻撃に懸命で、下口への支援どころではなく、一刻も早く、隆元・隆景を出雲へ呼び寄せたい状況にあった。大友宗麟の豊前出兵は、北口の尼子義久との連携による行動であった。