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毛利・大友の一時和睦

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両者和平の条件の中心は、毛利方についた豊筑の国人たちの処遇と、その居城の処置であった。とりわけ、高橋鑑種の宝満岳城と門司城を結ぶ連絡路にある松山城・香春岳城の処置がなかなか決まらず、永禄六年(一五六三)六月、やっと両者合意に達し、翌年七月二十五日、講和の神文が交換され、松山・香春両城を臼杵新介・入田(にゅうた)治部少輔・卜野対馬守に打ち渡すよう指示された。毛利元就にとって、この講和は出雲白鹿城攻略のための時間稼ぎにすぎず、「何篇、一ハ和平、二ハ彼密談ニてあるべくや」「ただ一年・二年之間なととまてハ豊に同心有間敷候」(『兼重文書』萩藩閥閲録)という方針を曲げてはいなかったのである。
 永禄七年九月、早くも、大友宗麟や大友家四家老からの抗議書が、聖護院道増・久我通興へ届けられた。それによると、「依然として、毛利氏と高橋三河守鑑種らとの連絡が行われており、豊筑の間で、逆徒に荷担し、城郭を構え、さまざまな隔心の策謀をなしており、信用できない。毛利氏がそのような態度をとり続けるならば、大友氏としても、防長の旧大内家の家臣を蜂起させて、大内家再興の手だてを打たざるを得ない」というものであった。