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大坂山の戦い

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永禄八年(一五六五)五月、長野筑後守吉辰は、四年ほど前、人質を佐田氏に預けて、大友氏に対し忠誠を示してきたが、ここに至って離反した。田原親宏率いる国東・速見・宇佐・下毛郡衆が、その里城を攻め、猛攻を重ね、多数の死傷者を出したすえ、攻略した。
 大友氏は佐田隆居ら一〇人の検使を派遣し、郡々に二人ずつ配置して、闕所地を摘発し、段銭の徴収を厳しく行った(『大友家文書録』)。
 永禄九年(一五六六)十一月、出雲の富田月山(とだがっさん)城の尼子義久が和睦の形で開城すると、毛利氏は下口へ露骨な調略を行って、豊筑への進出をねらうことになった。それまでは、門司城・松山城を押さえ、一方で、豊筑の国人たちをそそのかすことによって、大友氏の防長に対する野心を牽制してきたが、北口の憂いを除いたあとは、豊筑の国人たちの期待にこたえて、博多・太宰府への進出という野望をあらわにしてきた。
 永禄十年(一五六七)六月、高橋鑑種が宝満岳城から行動を起こすと、これに呼応して、秋月種実が古処山で、筑紫広門が五箇山で、相次いで挙兵した。更に立花城の立花鑑載(あきとし)が、高橋鑑種による度々の勧誘にこたえて、永禄十一年(一五六八)六月、挙兵に踏み切った。
 このような時機に、大坂山で、西郷隆頼・杉隆哉らが挙兵した(第6図参照)。

第6図 大坂山

  一、五月三日(永禄十一年)、長野筑後守江量(ママ)忍入り生害し候、是ハ到津被官の者仕り候由に候、又、毛利家より、三岡・等覚寺通路ニ宮尾城取り候、ここに、筑後守ハ打たれ候ヘ共、同名兵部・左京、彼三岡を持ち、等覚寺をも同名三河持コタヘ、豊州に至り進上し候、同六月廿日、豊州より宮尾せメ落され候、中国衆五十余打留められ候、其後、ツイキノ郡別符に宿陣し候、又、都郡大坂山ヲ杉因幡守・西郷両人ニて取誘(こしら)え候、是又、せメ落され、杉領も西郷も向(降)参し候、又各ハ別符に至り帰陣し候
                  (『到津文書』四三一、原文漢文体)
 西郷隆頼・杉隆哉挙兵のねらいは、門司城・松山城・香春岳・立花城・宝満岳の連絡路の確保と、大友方となっている長野氏の三岳城を孤立させることであった。『萱嶋文書』では、「杉・西郷両城においても累日防戦」とあるから、因州城・不動ケ岳に挙兵したあと、大坂山へ逃げこもったのであろうか。大坂城も攻め落とされ、杉・西郷両人は降伏した。
  日田郡において申し与え候地の代所として、豊前国仲津郡の内、安留源内跡弥吉九町分、同郡の内、玉井中務丞跡□(小カ)犬丸拾五町分の事、預置き候、知行あるべく候、恐々謹言
       十月(永禄十一カ)十一日
宗麟 在判  
           桜井藤兵衛(紹白)入道殿
(『大友文書録』)

 右の史料は、当町安富の武士源内らの知行地を桜井紹白という豊後の武士に与え、これを吉岡宗歓ら四老が城井左馬助へ打ち渡させている。安富源内らは、西郷隆頼・杉隆哉らに従って、大友氏に敵対したため、その所領を闕所されたらしい。