そのあと、長野兵部少輔弘勝と同左京亮某が三岳城にこもり、長野三河守助守(祐盛、三郎左衛門、秋月種実の弟種信)が等覚寺に立てこもった。これに応援隊として、田原親宏の手兵が詰めていた。毛利氏は仁保隆慰に命じて、三岳・等覚寺の間に宮尾城を築いて、両者を分断し、中国勢の到着を待ったが、六月二十日に豊州勢に攻略され、五〇余人が討ち取られた。
永禄十一年八月、吉川元春・小早川隆景の両川軍数万が渡海して、三岳・等覚寺を一息に攻め落とした。三岳城では、長野弘勝・同左京亮や田原親宏の家来ら五百数十人(『森脇覚書』)が討ち死にした。等覚寺にこもっていた長野三河守助守は、豊後勢とともに敗走し、豊後に亡命した。こうして、豊前の西半分は毛利方の支配となった。
第7図 三岳城跡