「永禄(端裏書)五六七八九マテ之勘定分 「至(異筆)二安東一遣レ之案文」
国分寺領寺辺西郷の内、中村未進目録 」
国分寺領寺辺西郷の内、中村拾四町五反分の事、安宗(東脱カ)覚并びに同名其外家中衆、相拘えられるといえども、近年、土貢・定銭・夫銭以下、勘定を勤めざるの事、豊州御代は領主、検地検見をもって、済物堅固ニ申付べき事余儀無き由、度々申し候といえども、土貢定銭夫銭の事、前々相定むるの前これ在るの由、佗言の条、先々勘文かくの如し
一 永禄五年分、不作ニ依り済物の勘定これ無し
一 永禄六年、当作これ在りといえども、不作同前ニ勘文これ無し
一 永禄七年分の事 拾四町五反内 五反永不 七町定銭七貫文未進也
七町ハ定米七石 此内壱石弐斗五升七合これを納む
五石七斗四升三合未進也
并びに夫銭の事 右の七町分ノ夫銭弐貫百文 未進也
七町ニ夫銭壱貫四百文 未進也
以上未進銭拾貫五百文 同未進米五石七斗七升弐合
一 永禄八年分 拾四町五反内 五反永不 七町定銭七貫文
此内五百廿文これを納む、六貫四百七十文未進
七町ハ定米七石 此内三石八斗六升五合これを納む
三石壱斗三升五合未進
右の夫銭三貫五百文、蓋し未進なり
以上未進銭玖貫九百七十文 同米未進三石壱斗三升五合
一 永禄九年分 拾四町五反内 五反永不 七町定銭七貫文皆未進
七丁定米七石 此内五石壱升これを納む 壱石玖斗玖升未進
夫銭定銭拾貫五百文皆未進
以上未進銭拾貫五百文 同土貢壱石玖斗玖升これを未進す
右三ケ年未進銭 合参拾壱貫五百文 此内五百卅文これを納む
卅貫玖百七十文未進
彼未進銭、米和市散用の時は、六拾壱石玖斗四升
土貢未進米の事 三ケ年分土貢辻弐拾壱石
此内拾石壱斗三升二合これを納む、拾石八斗六升八合未進
延テ拾七石参斗八升四合
惣都合銭米土貢共ニ七十玖石六斗弐升四合歟
右の外ニ安堵料これ在るべし、并て三貫文藪田小苗代壱町分定銭、仍って勘文件の如し
永禄玖年十二月廿八日
納所 円海 (花押)
木坂右京進宗弘 (花押)
山本兵部丞家久 (花押)
木坂右京進宗弘 (花押)
山本兵部丞家久 (花押)
この史料は、国分寺領として、この時期まで存続してきた仲津西郷中村(犀川町中村)の納入物が滞納となっている状況を、作職所有者である安東氏へ提出したものである。この寺領中村は一四町五反からなり、うち五反は耕作不能地、七町は定額の銭納年貢、七町は定額の米納年貢となっている。夫役も銭納することになっていて、毎年三貫五〇〇文納める。定銭・夫銭を米で納める場合は、米二石で銭一貫文を交換する。
永禄五年(一五六二)は不作で年貢免除、同六年も不作同前となっている。『下毛保内百姓等愁状案』(湯屋文書)でも、永禄五年は、諸軍勢の到着で田畠ともに切り取られたため、公領・給地では古未進を棄破されているのに、下毛保のみ古未進を厳しく催促されるのは堪えがたいと訴えている。永禄五、六年分の年貢徴収がなかったためか、同七、八、九年と未進が嵩み、三か年で未進米高が八五石余にもなっている。こうなると寺領とは名のみで、作職保持者である地侍的名主の私領化している。