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立花城の攻防

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三岳を攻略した両川軍は、帆柱城を経て、芦屋から宗像へ進み、立花城を目指した。
立花城では、永禄八年(一五六五)七月九日、戸次鑑連(あきつら)・吉弘鑑理(あきただ)らが入城し、怒留湯主殿助(とのものすけ)を西城督として、大友方の守りを強化した。前々からの城主立花鑑載(あきとし)が、高橋鑑種らから、しきりに調略を受けていたから、彼の動きを懸念して、先手を打ったのである。
 その立花鑑載(入道宗冊)が、永禄十一年(一五六八)六月、高橋鑑種の誘いや脅しに屈して、立花西城督怒留湯主殿助を追い落とした。戸次鑑連・吉弘鑑理らは、直ちに立花城を包囲し、攻め落とした。立花鑑載は城を出て、宗像方面へ逃走中、大友方の待ち伏せに出会い討ち取られて、首を宗麟のもとへ送り届けられた。
 立花鑑載が滅亡した二か月後の九月、両川軍五万余(『老翁物語』は四万)が立花城を包囲し、翌永禄十二年(一五六九)閏五月まで、豊後勢一二万余(『老翁物語』は六万)が、これを遠巻きしてにらみ合った。豊後の後ろ巻き勢が立花城に近付きえないままに、城内では水や食料が尽き、大友宗麟も降伏を許可したので、田北民部・鶴原掃部らは降伏し、城を渡した。
 毛利方は、彼らを丁重に志賀島の大友陣へ送り届けた。
 立花城を陥れた両川軍を大友方は包囲したまま十月までにらみ合った。
 この間、豊前西部四郡を支配下に入れていた毛利方は、豊前東部への進出を図って、野仲鎮兼、宇佐宮社官時枝・宮成氏らと連絡をとって、水軍に命じて上毛郡から下毛郡沿岸の集落を焼き払い、一部は府内の港に侵入して艦船を襲った。