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大内輝弘の山口侵入

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大友方も、水軍を防州秋穂(あいお)に上陸させ、地下(じげ)の一揆と連絡して山口侵入の構えをみせた(『内藤文書』萩藩閥閲録)。
 次いで、大内太郎左衛門尉輝弘を山口に突入させて、毛利氏の後方を攪乱(かくらん)させた。
 大内輝弘は大内義興の弟高弘の子といわれる。大内高弘は、氷上山興隆寺の別当であった僧尊光で、杉平左衛門武明らに擁せられて、兄大内義興から家督の座を奪おうとする陰謀が露顕して豊後に亡命し、還俗して高弘と称し、大友親治の食客となって、帰国のチャンスを待っていた。
 永禄八年(一五六五)六月、大内輝弘は平岡(伊予市)へ渡海し、屋代島(周防大島)で陶晴賢の旧臣内蔵某らと合流したが、毛利方の来島水軍に襲われて惨敗し、一味ほとんど殺された。大内輝弘は豊後へ逃げ帰った(『永弘文書』)。これは、毛利元就が尼子義久の立てこもる富田月山城攻撃に全力を傾注している虚を衝く行動であった。
 永禄十二年(一五六八)十月十一日、大内輝弘は再び渡海した。半年ほど前から、約束手形を乱発して同志を募っていたが、豊前の新興領主緒方備後守鎮盛・吉村哉勝(としかつ)・屋方兼諸(もろ)・恵良備前守鑑秀ら五〇〇ばかりの兵と大友宗麟の命令で出動した豊後水軍の大将若林中務少輔鎮興の船に乗って、豊後から周防秋穂浦へ上陸し、一路山口を目指して進撃し、山口に突入すると、市街に火を放ち、鴻ノ峯(高嶺)城の手薄をついて攻撃をかけた。このとき、防長の旧大内家の牢人も若干一揆して、各地で蜂起し、不穏な情勢が広がった。
 このころ、毛利元就は、孫の輝元とともに赤間関に下向していて、筑前立花城の小早川隆景・吉川元春へ指示を与えていたが、手元が手薄なので、山口の社家・寺家の者までも赤間関に動員していた(『内藤文書』)から、大内輝弘の山口侵入は、まことに効果的であった。しかし、小勢の大内輝弘軍は鴻ノ峯を攻略できず、対岸の築山竜福寺に陣をとって、攻略の策を練ることにした。

大内輝弘の花押

 これより三か月前、山中鹿之助が、出家して京都にいた尼子勝久を擁して出雲に侵入し、天野隆重らが詰めていた富田月山城を包囲し、石見まで揺さぶる勢いを示していた。備後でも、藤井能登守入道晧(こう)玄(『老翁物語』)を中心とする国人一揆が、浦上宗景や村上元吉と連携して蜂起するという情勢を利用して、大内輝弘が帰国をねらったのである。
 十月十三日、大内輝弘方の軍将城井小次郎が、山口付近を流れる大河の上流の浅瀬を渡ろうとしていたとき、山口高嶺(こうのみね)城へ駆け付けていた吉見一族上領頼規(かみりょうよりのり)父子と行き合い、合戦となって、宮野口で、子息頼武を討ち取った(『赤木文書』萩藩閥閲録)。