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毛利軍、九州から撤退

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十月十五日、毛利元就は、立花城在陣衆に撤退を命じた。立花城には乃美宗勝・坂元祐(もとすけ)・桂元重(もとしげ)ら一〇〇〇人を残し、在陣衆の無事撤収を見届けさせた。これを知った大友方は遠賀川渡口まで追撃し、数百人を討ち取ったが、大崩れすることなく、毛利勢は芦屋付近から乗船して関府へ到達した。このとき、豊州三老の調略状を小早川隆景へ差し出して、「万事を抛(なげう)ち、芸州御一篇」を誓った麻生摂津守隆実は、豊州勢の追撃を阻止した。大友宗麟は、半年前、田北民部以下を送り届けた恩義によって、乃美宗勝ら立花残留衆を湊まで送り届けたと諸書に記述している。
 十月二十日、毛利元就は、吉川元春・福原貞俊を長府から出立させ、長門有穂、周防白松北南・木波・床波・山代五か村一揆などを鎮圧する一方、山口の大内輝弘討伐を命じた(『舟越文書』萩藩閥閲録)。
 山口築山の大内輝弘は、対岸の鴻ノ峯に敵兵が続々と入城しており、毛利本隊が山口へ進撃してくるという噂におびえ、豊後への撤兵を決し、右田岳下を通り、敵軍の追撃を退けながら、糸祢(いとね)峠を越え、合尾浦へ出たが、豊後水軍は撤退していて影がなく、船を求めて三田尻へ移動したが、仕方なく、富海(とのみ)の茶臼山に登って船便を待つことにした。
 しかし、大軍の包囲・攻撃を受けて、ついに切腹し、同行した豊前・豊後の将兵数百人も、皆討伐された。ときに大内輝弘は五十一歳であった。