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高橋鑑種、大友と和睦し小倉へ

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太宰府背後の宝満岳城には、高橋鑑種加勢のために、阿曽沼広秀ら防長の兵二〇〇〇ほどを送り込んでいた(『赤川文書』)が、立花城を開城し、香春岳城・松山城も放棄されたため、孤立無援の状態となった。ここに、大友方の旧知の人の斡旋によって和睦し、高橋鑑種は豊前小倉へ移り、入道して宗仙と称した。
 これより前、永禄十二年(一五六九)八月、毛利氏は、高橋鑑種へ誓紙を送っており、宝満岳下城の交渉は、この起請文(きしょうもん)の線に沿って行われたと考えられる。次にその史料を掲げて、彼の位置付けを考えてみよう。

高橋鑑種の花押

   (端裏書)「高橋へ一通也」
   今度、大友と確執の儀につきて、上意に従い和睦致すべきの由、仰せ出さるるに依り、御方に対し、此方存分の事、条々をもって申さしめ候
   一 かくの如く和平を致し候といえども、貴所に対し申し、末代において見放し申すまじき事
   一 万一、向後(きょうご)、大友と深甚の知音の儀候といえども、鑑種御事、彼下へ御入候へと申すべからず候、此方与力として尽未来の際をかぎり、拘え置き申すべき事、
      付、御方・此方半の自然雑説も候ハん時は、この神文をもって、直に尋ねに預かるべき事
   一 所帯の儀、書き立てをもって申し合せ候辻、いささかも相違あるべがらざる事
      右の条々、偽るにおいては、梵天帝釈四天王惣日本国中大小神祇殊に八幡大菩薩、厳島両大明神、氏神祇園牛頭天王・天満大自在天神御罰を罷り蒙るべき者也、よって起請文、件の如し
        永禄十二年八月五日
右馬頭元就   
小早川隆景   
吉川元春   
毛利輝元   
     高橋三河守(鑑種)殿
(原文は漢文、『毛利家文書』)   


毛利輝元の花押

 『大友興廃記』には、大友家老中の計らいで、立花城督吉弘鑑理の二男弥七郎を高橋鑑種の養子となし、岩屋・宝満岳両城を継がせ、鑑種には豊前国において二郡を宛行ったとある(『大友家文書録』・『九州治乱記』は企救一郡を宛行ったと記す)。
 『市川文書』(萩藩閥閲録)四月八日付には、「門司衆の儀ニ付て、続目の判の事申され候処、其心を得候辻に於ては忘却無く候、去りながら、只今、判共遣わし候はば、高橋への聞へ如何に候条、先ずもって此節は遣わさず候」と、門司の人たちが、所領の安堵を請うているけれど、高橋宗仙と対立することを避けたいので、当分、安堵状は出さないと述べている。この後のことであろうか、「門司城江豊後衆・高橋申談、取懸候之由申候、左様候共、珍事ハ御座有間敷と存候」(『南方文書』萩藩閥閲録巻四七)と、高橋宗仙と豊後衆が門司城へ攻め寄せるような豊後・高橋の友好関係があり、京都へお礼のため、段銭を徴収するから古帳の員数に任せ取り立てるよう、大友家加判衆から宗仙が命令を受けている(『田原文書』三月三日付)。一方では、「隆春(内藤)、種々御入魂の次第、忝共(かたじけなくとも)御頼敷共、更にもって兎角申し述べがたく候、いよいよもって然るべき様御心得に預るべき事、頼み存じ候」(『内藤文書』二月七日付)と、長門国守護役内藤隆春と、高橋宗仙は、宝満岳籠城以来の親密な関係を保っていた。
 下口の戦争を打ち切った毛利氏は、北口の尼子勝久を擁する山中鹿之助討伐に全力を注ぎ、伯耆・備前・播磨へと軍を進めたから、尼子勝久は織田信長に支援を仰ぎ、上口の戦争へと連続することになる。豊後の大友氏も織田信長と連携して毛利氏を牽制し、豊筑の経営を安定させることができた。毛利氏は薩摩の島津氏と連携して豊後を脅かした。
 肥前では、竜造寺隆信が叛服を繰り返し、その度に、次第次第に勢力を強め、肥前一国から筑後を脅かすようになった。