天正六年(一五七八)、大友氏は日向に侵攻した。日向では、豊後国境の土持親成が、南部の伊東氏に圧迫されて島津氏と結び、伊東義祐・義益父子を豊後へ亡命させた。そのため、大友氏が豊筑の兵四万余を動員して日向へ送り込んだ。これに対して、島津義久が土持氏に援軍を送ったため、豊薩の大戦争となった。大友宗麟は務志賀(延岡市)まで出張し、この地にキリスト教の理想国家を建設しようとした。
日向方面軍を指揮したのは、六人の加判衆のうち、田原近江守親賢(入道紹忍)・佐伯紀伊守惟教(これのり)(入道宗天)・田北相模守鎮周(しげちか)・吉岡越中守鑑興(あきおき)の四人、肥後から薩摩に侵入する作戦に当たったのは、志賀安房守親守(入道道輝)・朽網三河守鑑康(入道宗歴)の二人を中心とする南郡衆であった。
天正六年十一月十二日、日向耳川を渡って、島津家久・山田新介有信らの籠城する高城を攻めるとき、強引な作戦が裏目となって大敗し、敗走する過程で、数千人を討たれる惨敗を喫した。
豊後勢は、佐伯宗天・田北鎮周・吉岡鎮興の三加判衆をはじめとして歴々の武将を戦死させ、大友国家崩壊の口火を切ることとなった。
四加判衆のうち、重傷を負いながらも、ただ一人生還した田原紹忍に対し、敗戦の責任を問う声が殺到し、後世に悪名を残すこととなった。
田原紹忍は武蔵田原家を継いでいたが、奈多八幡の大宮司宇佐鑑基(あきもと)の子息で、姉が大友宗麟の正室となっていたこともあって、寵臣として、大友宗麟に重く用いられていた。また宇佐郡妙見岳城督として、二〇年間余も豊前全域ににらみを利かせており、豊前の軍勢を率いて、高城の戦いに参加していた。田原紹忍は、俗書では、大友家没落の原因を作った侫(ねい)臣であり、宗麟と同様、キリシタンで、神社仏閣を破壊したと記されているが誤りである。彼は神主の子であるため、姉とともに、強固な反キリスト教徒であり、養子親虎の入信に反対して追放した話は有名である。
また、薩摩側の記録では、豊後勢でただ一人勇敢に戦った武将として書き留められている。
大友宗麟が数万の家来を置き去りにするようにして、陸路で臼杵城へ逃げ帰り、しばらく行方不明であった田原紹忍が重傷を負って妙見岳へ帰着するありさまであったから、豊前から従軍した将兵が、島津勢に追撃され、討ち取られながら敗走する様を思い浮かべると、いかに困難な退却であったかが分かる。
豊後勢敗北の報は、たちまちのうちに、九州内外に流れ、立花城攻防戦以後、隠忍自重してきた豊筑の諸牢人は、好機到来とばかり、直ちに行動を開始した。筑前の秋月種実は豊前田川郡に侵入し、小倉城の高橋鑑種入道宗仙も、京都・仲津郡へ進出し、長野助守を離反させた。
このような時期に、蓑島の戦いがあった。