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蓑島の戦い

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天正七年(一五七九)正月、防州から渡海した杉七郎重良が蓑島に籠城した。杉重良は、豊前守護代であった杉伯耆守重輔の子で、父重輔が内藤隆世に反逆の廉(かど)で滅ぼされたとき四歳であった。永禄五年(一五六二)の大友勢の苅田松山城攻撃に籠城して、幼年ながら、天野隆重・杉隆哉らと踏ん張り、二郡を与えられたという(『伊香賀文書』萩藩閥閲録)。この二郡が京都・仲津両郡か、田川郡が入るのかは明らかでない。この二郡を長野助守・高橋鑑種が大友氏から与えられていたが、日向高城の敗戦で、彼らが相次いで離反した。秋月種実も、天正七年正月五日以前、「芸州御一味」を申し入れていた。益田藤兼は「杉重良の事、我等別して申し談じ、先年の筋目をもって御入魂肝要に候」(『杉文書』萩藩閥閲録巻七九)と秋月種実へ申し入れた。正月十八日、毛利輝元は、杉松千代丸(重良の子息元良)へ「今度、親父重良こと、蓑島に至り渡海せしめ、敵心し候、是非に及ばず候、然る上は、一家断絶勿論に候といえども、母儀の覚悟をもって、同心無きの段、神妙の至りに候、それにつき、貞俊(福原)、重畳佗言候条、彼の親子に対し、分別せしめ候」という書状を与えている。
 この書状の意味は、杉重良が毛利氏に敵対して蓑島へ渡ったから、家名断絶が当然であるが、母と福原貞俊の陳情によって、杉元良が家を相続するのを許すというものである。この史料から、杉重良の行動を毛利氏が黙認していたのではないかという印象を受ける。

長野助守の花押

 『大友興廃記』には、この事件について次のように述べている。
  杉七郎重吉は毛利家に背き、豊後大友宗麟の家臣田原親賢入道紹忍を頼み、豊後に亡命しようと、手勢二〇〇人に雑兵あわせて二〇〇〇余人で渡海し、途中、蓑島に船をつけて休息した。ところが、大友氏と対立していた高橋鑑種が、杉重吉を豊後に入れさせまいと、六〇〇〇余人を率いて蓑島へ押し寄せ、何度か合戦の末、杉重吉の船を少々焼き払った。杉重吉は残った船で椎田に渡るだろうと予想した高橋宗仙は郡(こおり)下総守某に七〇〇人ばかりを付けて待ち伏せしていたところ、案の定、椎田に上陸してきたので、これを付け送って疲れさせ、ついに、杉重吉以下三五〇人ばかりを切腹に至らしめた。時に天正七年三月三日のことであった。高橋宗仙もこの一カ月後に病死した。
 『大友文書録』には、右の記事の誤りを指摘する史料を掲げている。これを左に紹介して、事件の真相を探ってみよう。
  蓑島に至り、宗亀(田原親宏)人数差渡され、杉重良と申し合わされ、前(二月)廿八、大橋表(行橋市)において、勝利を得らるの由、承り候、各軍(おのおの)労の次第、申すに及ばず候、然る処、高橋(宗仙)・長野(助守)申し組み、右嶋取詰めるにより、毎日防戦を遂げ、敵数百人打果し候刻、宗亀家中の余義なき衆戦死の様、其聞え候、まこと忠儀高名比類無く候、然りといえども、遠聞計り難く候の条、然との到来承りたく存じ候、たとえ一旦、右の姿候とも、弓箭(きゅうせん)の慣ひ、珍しからず候の間、仰天には及ばず候、ここもと出勢の事、義統(大友)堅く申し付け候由候、弥(いよいよ)油断有るべからざるの段、申し達すべく候、万一、蓑嶋表仕合い無く候はば、秋月事、還って宗亀え入魂の義もこれ有るべく候か、その故は、種実、無思慮深重に候とも、宗亀気仕いに及ぶにおいては、種実内儀としては嘆息(心配)有べく候や、調略以下も折目をもって成就候事、新しからず候の条、差置かれず、その心懸専一に候、はた又、今度の行(てだて)につきて、ケ条ならび方々書状、具に承知せしめ候、(以下略)
      (天正七)三月七日
円斎(大友宗麟)(朱印)   
田原常陸入道(宗亀)殿
(『田原文書』、原文は漢文)


田原宗亀の花押

 この史料によると、武蔵田原紹忍(重傷加療中カ)ではなく、田原本家の親宏入道宗亀が、杉重良と示し合わせて、蓑島へ兵を送って、高橋宗仙・長野助守勢と交戦し、大橋の戦いでは勝利を収めたが、蓑島を攻められて大敗し、田原宗亀家中の中心的な人物を多数戦死させてしまった。大友宗麟は田原宗亀の大友家に対する忠義と戦功をたたえ、戦いに勝敗はつきものであるから、敗北しても気落ちすることはない。豊後本軍の支援を義統が命じたから、油断なく籠城を続けるようにと励ました。
 宗麟はまた、蓑島の合戦がなかったならば、宗亀と秋月種実とが、より親密な間柄になっていたのではなかろうか、秋月種実の無分別がひどくとも、宗亀の諫めによって、慎重に行動するようになるのではなかろうか、大友国家のために、豊前方面の調略を続けてもらいたいと述べている。
 田原宗亀は、娘を秋月種実に嫁がせており、種実の弟長野種信の子を婿に取って、田原親貫(ちかつら)と称させ、家督を継がせていた。こうした関係から、大友宗麟は、田原宗亀の動きを心配していたのである。
 田原宗亀は、前年十一月の日向高城の戦いに、養子親貫を出陣させ、白身は豊前方面へのにらみとして、国元にとどまっていたようである。
 高城の敗戦で、加判衆三人を戦死させ、生還した田原紹忍も重傷を負っていたから、大友「国家」は加判衆の補充のため、田原宗亀を府内に呼び寄せ、その任に当たらせた。ところが、田原宗亀は、一か月も経ないうちに黙って帰郷してしまった。領主の許可もなしに家臣が帰郷するということは謀反を意味する。府内は騒然となった。衰えていたとはいえ、田原氏は大友三大分家の第一に位置付けられており、弱り目の大友氏に与えた衝撃は大きかった。臼杵城に隠居していた大友宗麟は、使者を国東に派遣し、田原宗亀の意向を質した。
 田原宗亀の要求は、父親述(のぶ)、兄親董(ただ)、宗亀と三代五〇年にわたって、大友家の勘気を被り、大内家で亡命生活を送っている間に、国東・安岐両郷を中心とする旧領を奪われ、分家の武蔵田原家や大友家臣団に与えられていたのを返還してほしいというものであった。
 大友宗麟は二つの条件をつけて、宗亀の要求を入れた。一つは、宗亀の養子を廃嫡して、宗麟の子で林家を継いでいる新九郎親家を養嗣子として迎えること、もう一つは、大友家に対する忠誠の証(あか)しとして、一てだてを企てるというものであった。
 田原宗亀は、この条件を飲み、杉重良に、永禄年間の旧領京都・仲津(田川カ)二郡を与えると誘い、両郡奪回のため、蓑島へ軍勢を送ったものと考えられる。しかし、このてだては失敗し、田原宗亀も、この年九月十六日病死した。