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元種、長野助守らを勢力下に

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天正七年(一五七九)四月、小倉城の高橋鑑種入道宗仙が病死した。そのあとを秋月種実の子息(種実の弟という説もあるが、『黒田家譜』の説をとる)九郎元種が継ぎ、田川郡に侵入して、岩石(がんじゃく)城・香春岳城に拠った秋月種実と連携して、京都・仲津二郡を与えられていた長野三河守助守を従え、築城郡の城井鎮房をも圧迫して、その勢力下に入れていく。
 天正七年三月十九日、蓑島合戦の後、田原宗亀からの書状に対して、秋月種実は「重ねて承りまじく候、恐れながら、御家の儀、追て、御後悔なきよう御才覚、この時に候」(『稙田文書』)と、宗亀の一連の行動に不快の意を示している。
 『仲間文書』五月十日付に「城井民部少輔がこと、順路の覚悟深重の故、秋月、高橋已下の悪党申し組み、鎮房に至り懸け催さるべきの由候」と城井鎮房が秋月・高橋勢に攻め寄せられようとしているのは、天正七年のことであろうか。
 天正七年九月二十八日、長野助守が毛利氏へ送った覚書によると、このころ、城井鎮房が大友氏から離反し、仲津郡を長野助守へ返還、香春一の岳・二の岳が大友氏に占領されたこと、助守の子息少輔五郎を人質として、毛利方である門司城へ差し出したこと、長野氏の旧領京都郡と仲津郡を毛利輝元が安堵してほしいと申し入れている。
 『大友文書録』によると、このころ、豊後から志賀道輝・朽網宗歴らが豊前中津(仲津郡カ)に出陣し、秋月種実の討伐を議して、田川に陣を移し、長野氏を攻めて宝森城(所在不明)を抜き、香春岳を攻めた。
 秋月種実は古処山から豊前仙津に出陣し、豊後勢が敗れ、中津城(犀川神楽城カ)にこもったという。右の長野助守の覚書と関連するものであろうか。確実な史料に乏しく、真偽のほどは今後の研究に待ちたい。

秋月種実の花押