ビューア該当ページ

田原親貫が挙兵

713 ~ 715 / 1391ページ
天正八年(一五八〇)正月、田原宗亀の養子親貫(つら)が安岐城で挙兵した。親貫は秋月種実の弟長野種信の子で、宗亀に男子が無かったので、婿として迎えられていたが、大友宗麟は、自分の子林新九郎親家を養嗣子とする条件で、田原本家の旧領国東・安岐両郷そのほかを返還した。これを知った田原親貫は、後に豊前との国境に近い鞍懸城に移り、秋月種実や毛利氏の支援を仰いで、豊後の一郭を確保しようとした。
 天正八年二月、筑前立花城督として、宝満岳城の高橋紹運とともに、筑前方面で叛服を繰り返す秋月・筑紫・宗像・麻生・杉連緒・原田らの国人の討伐に縦横の活躍をしていた戸次鑑連入道道雪は、豊後南郡の重臣一三人にあてて、主家のことを思う熱烈な檄(げき)文を書き送り、豊筑の情勢に対する処置を要望した。その中で、「①秋月辺から、大友宗麟の『無道の条数十ケ条』余を書き立て、近国へ触れ回っていること。②豊後では重臣をはじめとして男女ともに天竺宗になり、寺社を破却し、仏神を河に投げ入れたり、薪(まき)にしたり、寺社領を人給に宛行って仏神をないがしろにしている。『日本は神国と申す』から、順儀天道に背かないようにすべきである。③近ごろ、秋月と竜造寺が一味し、親貫加勢と号して二、三か国の者を集め、日田・玖珠辺へてだてをなそうとしている。親貫方から、しばしば津崎善兵衛入道が、秋月から上野四郎兵衛・江利内蔵助が往返していた意味が今やっと分かった」と田原親貫の動きを伝え、大友宗麟の洗礼による豊後国内の分裂を警告した。

戸次道雪の花押


田原親貫の花押

 天正八年三月二十八日、西郡衆(高橋・長野勢)が、中津河表へ現れ、下毛郡の蠣瀬・成恒氏らの大友方が撃退した(『成恒文書』)。これは、田原親貫加勢と称して、豊前東部の攪乱を策したものであった。
 四月、豊後の有力武将の一人田北大和入道紹鉄(鑑富)が熊牟礼城に兵を挙げ、秋月方と合流しようと玖珠郡から日田郡へ移動しているとき、日田郡松原村で財津左京亮らに討ち果たされた。