この豊後の変乱に乗じて、宇佐郡でも、宇佐社官衆である宮成右衛門尉公基、益永民部少輔統世、時枝備後守鎮継・橋津佐渡入道英度・辛嶋・上田らが挙兵し、「郡内動乱」した。
宇佐宮は、大友氏の支配下に入って以来、社奉行奈多鑑基・鎮基と二代にわたって対立し、毛利氏や秋月氏に接近していった。奈多鑑基は娘を宗麟の正室とし、子息親賢(紹忍)を武蔵田原家へ養子として送り込み、田原本家をしのぐ権勢をふるい、宇佐宮社官・供僧の衆議による自治を認めず、豊後の「憲法」を押し付け、これに違背したときは、その所領を没収し、彼の家臣に預けたので、社官衆の反発を招き、大友氏になじまなかった。
天正八年八月、田原親貫は毛利氏のもとへ如法寺親武を送り、海上からの支援を取り付け、安岐城沖へ毛利水軍一〇艘が姿をみせたが、豊後水軍に阻まれて、港に接近することができなかった。