天正八年九月八日には、「城井・長野以下の悪党、赤尾三河入道宅所え取り懸け、村中放火せしめ、切寄に詰め寄り候といえども、堅固の格護をもって、敵あまた仕付け、分捕り高名す。…野仲がこと、心元なきのよう申し散じ候や」(『佐田文書』、原文は漢文)と、豊前東部の混乱は続いた。豊後の大軍による鞍懸城攻撃が半年以上も続き、豊前への出陣が不可能である隙(すき)をついての動きであった。
野仲鎮兼の花押
同十月、安岐城・鞍懸城が相次いで陥落し、田原親貫は逃れて、豊前善光寺辺に隠れていたが、後に時枝氏に滅ぼされたという。
その数日前の十月三日、大友勢は中豊前へ一てだてを打ち、「敵領数多打ち崩した」(『問注所文書』)と、宗麟が問注所統景へ報じている。