この二日前、宇佐宮が田原親家を大将とし、田原紹忍・吉弘統運(むねゆき)の率いる国東郡衆や、安心院麟生(りんしょう)・佐田鎮綱・橋津英度(はしうずひでのり)らの宇佐郡院内衆七〇〇〇余人に包囲され、ことごとく焼亡した(『益永文書』一三六号)。
この事件は、宇佐宮や彦山が秋月氏や毛利氏と結び、大友氏の支配に抵抗したために起こったことであった。これらの古代宗教勢力が焼き打ちに遭うことは、源平の争乱のときにもなかったことである。大友宗麟が、キリスト教信仰への傾斜を強めていたことが、宇佐宮や彦山の反発を招いたということはあったかもしれないが、大友氏側が、これら古代宗教勢力を否定し、これを意図的に破壊したとは考えがたい。