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豊前衆の離反と大友方の反撃

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天正十年(一五八二)に入ると、下毛郡の強固な大友方であった賀来統直・福島佐渡守・蠣瀬新介・成恒鎮直らがみな野仲鎮兼や高橋元種の支配下に入り、宇佐郡でも、田原紹忍・親盛父子の拠(よ)る妙見岳城に近い四日市・元重辺を除いて、秋月方となってしまい、田原紹忍は籠城することのほうが多くなった。
 天正十一年(一五八三)、大友方の反撃が開始され、玖珠・日田・肥後小国衆と府内衆が、日田方面からと、速見方面からと挟み撃ちする形で、下毛・宇佐二郡へ入ってきた。すなわち、七月十一日、大友義統が豊前境(安心院竜王城カ)へ向けて、豊後府内を出立し、九月二十四日、万田(まだ)切寄(中津市万田)を攻め、城督広津式部少輔以下一人残さず打ち果たし、十月八日、宇佐郡佐野切寄(宇佐市佐野)へ押し寄せ、十月十六日、是則(これのり)切寄(中津市是則)を一息に打ち崩した。宇佐三家(宮成・益永・時枝氏カ)から知らせを受けた秋月種実は、伜高橋元種に命じて鉄砲と若干の手勢を送った(『萩原文書』)。豊後勢が帰国すると、「宇佐社中の者共、一雅意のみ企て」て、元重・四日市など、妙見岳麓の切寄にしばしば押し寄せ、その度に、妙見城督田原紹忍が応援に駆けつけるありさまであった。

高橋元種の花押