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秀吉の九州平定

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織田信長は、旧来の社会的原理を否定し、自らを神格化するなど、武力的にはもちろん、あらゆる権威の超越者として、天下統一を推し進めたが、天正十年(一五八二)に明智光秀の謀反によって本能寺に倒れた。信長の死は、彼が大友宗麟・義統(よしむね)と組んで、中国の毛利氏を討たんとする途上の出来事であった。
 山崎の合戦において明智光秀を誅滅した羽柴秀吉は、信長死後の主導権争いを優位に進め、毛利氏と和睦を結ぶとともに、同氏に対して大友氏との和議を勧め、天正十四年(一五八六)二月に和睦(わぼく)が成立するに至った。
 秀吉は天正十三年(一五八五)七月に関白に任じられるなど、畿内におけるその政権の地位は揺らぎないものとなっていたが、その威勢は九州において、いまだ盤石のものとは言えなかった。同じ年の十月に、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の勅命を奉じ、抗争の絶えなかった島津義久と大友義統に対して、和睦を勧めた。しかし、島津義久は翌年一月に、秀吉の対島津外交を担当していた細川藤孝(幽斎)に宛てて書状を送り、秀吉を「由来なき仁」と嘲(あざけ)るばかりか、大友氏との抗争は相手方に責めが有り、島津側は防戦しているだけであると回答し、今後のことは推測しかねると伝えた。
 義久は、この年の六月に九州北部への進撃を決め、七月からは破竹の勢いで秀吉方の諸城を攻め落としていった。秀吉方も小倉城、馬ケ岳城を落とし、高橋元種・長野三郎左衛門・山田大膳・八屋刑部・広津鎮種・時枝武蔵守・宮成吉右衛門らを降伏させたが、戦況はなお一進一退を繰り返した。
 しかし、島津氏の攻勢も、秀吉が率いる二二万の遠征軍によって鎮圧されるに至る。天正十五年(一五八七)三月一日に京都を発(た)った秀吉は、九州に入るや兵を二手(豊後・日向側と筑前・筑後・肥後側)に分け、自らは筑前側へ兵を進め、岩石城(がんじゃくじょう)を一日で攻め落としたのをはじめ、島津方の武将を次々と降伏させていった。そして五月八日、義久は髪を落とし、龍伯と号して、秀吉の軍門に下ったのである。
 秀吉は六月七日に筑前箱崎に到着し、そこで九州平定後の大名配置を行った。豊前国については、企救(きく)郡・田川郡を毛利勝信に、京都(みやこ)・仲津・築城・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐(妙見岳・竜王両城の当知行分を除く)を黒田孝高に、それぞれ宛行(あてが)った。