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黒田氏の入部と領国支配

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黒田氏初代の宗満(宗清)は、弘安二年(一二七九)に京極満信の二男として生まれ、近江国伊香郡黒田邑(現滋賀県伊香郡木之本町)に住み、黒田姓を名乗った。五代目高政のとき、山城国船岡山合戦の軍令違反により、将軍足利義稙(よしたね)の怒りを被り、備前国邑久郡福岡(現岡山県邑久郡長船(おさふね)町)に移り住んだと言われている。高政の子重隆のときに備前から播磨国飾東(しきとう)郡姫路に移り住み、その子職隆(もとたか)は赤松氏一族の小寺藤兵衛政職(もとのり)に従ったが、戦功をあげ、小寺氏の養女(明石宗和の娘)を正室に迎えて小寺姓を与えられ、姫路城を預かった。
 職隆の子孝高(よしたか)(初名孝隆)は、織田信長が台頭するや、父職隆にすすめて信長に接近し、秀吉の中国征伐(天正五年=一五七七)の折には、秀吉にしたがって佐用城、上月城を攻めた。天正八年(一五八〇)に秀吉が三木城(別所長治)を攻め落とし、それを居城にしようとしたが、孝高は地理的に居城として適さないことを進言し、あわせて姫路城を秀吉に譲って、自らは飾東郡国府山城に移った。小寺の姓を黒田姓に復したのは、このころである。孝高は秀吉政権下においても次々に戦功をあげ、九州征伐の際には軍(いくさ)奉行として秀吉に先行して九州に入るとともに、羽柴秀長(秀吉の弟)に従って、豊後・日向方面へ兵を進めた。島津氏降伏後、秀吉が行った大名配置により、孝高には豊前国のうちで六郡が宛行われたが、俗に孝高が九州にとどめられたのは、秀吉が孝高の卓越した才覚を恐れてのこととも言われている。
 孝高は、最初京都郡馬ケ岳城に入ったが、秀吉の命を奉じた羽柴秀長の指示により、天正十六年(一五八八)の初めには下毛郡の中津城へ移った。
 孝高は天正十五年七月に三カ条からなる領内法度を発するとともに、同年に検地を行っている。この検地は、当地方における、いわゆる(広義の)「太閤検地」であり、石高制がしかれる第一歩であった。しかし、黒田氏の検地に対しては、在地の武士団が領内各地で抵抗しており、そのためか、黒田氏の天正検地は多分に中世的な方式(指出(さしだし)検地)で行われている。
 黒田氏に対する在地の武士団の抵抗は根強いものがあったが、天正十六年二月に、鎌倉幕府御家人の由緒を持つ宇都宮氏を誅滅したことなどにより、しだいに沈静化した。