慶長三年(一五九八)に秀吉が没した後、五大老筆頭として勢力を伸ばしていた徳川家康は、同五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦の勝利により、武家政権の統率者としての地位を確固たるものとした。
黒田氏は、孝高(剃髪後、如水軒円清居士と号す)が朝鮮出兵の折より、石田三成と不仲であったこともあり、家康側につき、子の長政(天正十七年に家督相続)とともに東軍を勝利に導く一翼を担った。慶長五年十月十五日から行われた論功行賞で、黒田氏は加増の上、筑前へ転封となる。
小倉城主であった毛利勝信(企救郡・田川郡領知)は西軍についたため改易となったが(慶長六年九月に土佐の山内一豊に預けられる)、この旧毛利領・黒田領および豊後国国東郡・速見(はやみ)郡を宛行われたのは、細川忠興であった。
細川氏は、足利氏の支族で、足利義清の孫義季が三河国額田郡細川郷に移り住んで後、細川の姓を名乗った。足利宗家・尊氏が挙兵するにあたって一族を挙げて従い、近畿・四国で軍功をあげるなどして、ほぼ八カ国の守護職を細川家一族で務めるに至った。特に嫡家である京兆家の当主は摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を世襲し、御相伴衆となって、管領を代々務めた。
細川忠興の父藤孝は細川一族の中で、和泉半国守護家(上守護家)の後裔(こうえい)であった。細川氏の嫡家・各庶家が衰亡していく中で、藤孝は信長の助けを得て足利義昭を将軍とし、後には秀吉、家康に従って、近世大名としての細川氏の礎を築いた。また藤孝が、三条西実枝から古今伝授を受け、歌学の正統を伝える一流の文人であったことは、あまりにも有名である。
利休七哲の一人に数えられ、父藤孝と同様に文化人としても名高い細川忠興は、永禄六年(一五六三)十一月十三日に京都で生まれた。幼名を熊千代といい、天正五年(一五七七)に信長が雑賀(さいが)一揆を攻めた際、父藤孝とともに従い、和泉国貝塚合戦で初陣を飾った。その後も藤孝とともに摂津・播磨・丹波・丹後を転戦、天正八年七月、信長より丹後国で一二万石を拝領し、初め八幡山城に入り、後に宮津城に移った。
忠興は明智光秀の次女玉(洗礼名ガラシャ)を天正六年八月に妻に迎えていた。そのために光秀は、本能寺で信長を倒した後、藤孝・忠興父子の協力を期待していたが、細川父子は協力するどころか髻(もとどり)を切り、信長に対する弔意を表した。光秀は藤孝に書状を送り、摂津国と、望みであるなら若狭国も与えるとし、今回の謀反が娘婿である忠興などを引き立てんがための行動であったことなどを伝えたが、細川父子は従わなかった。光秀を倒して政治の主導権を握った秀吉は、この細川父子の行動を褒めたたえるとともに、丹後一国の知行を安堵した。この後、藤孝は剃髪し、幽斎玄旨と号し、忠興に家督を譲ったのである。
忠興は秀吉に従って天下統一に貢献し、慶長元年(一五九六)には従三位参議に昇進し、越中守に任じられたが、秀吉死後は石田三成と対立して徳川家康に従い、三男光(のち忠利)を人質として江戸に差し出した。家康はこれに対し、大坂屋敷の台所料を名目に豊後国速見郡と由布院において六万石を宛行った。慶長五年(一六〇〇)九月に関ヶ原合戦が起こると、忠興は東軍に属して行動し、岐阜城を攻略するとともに、九月十五日の合戦では首級一三六をあげるなどの軍功をあげた。そして、戦後の論功行賞により、豊前一国および豊後国の内で二郡を安堵(あんど)されたのである。
細川氏は領地を引き継ぐにあたって、黒田氏より「豊前之帳」「小物成已下ノ帳」の引き継ぎを受けており、これらの諸帳面を参照しながら、細川氏の検地は実施されていった。その検地は、入部した翌年の慶長六年七月から実施され、早いものは七月中に、遅いものでも九月中旬までには終了したようである。
ところで、黒田氏は転封前に慶長五年分の年貢を収納してしまい、それを細川氏に渡さず、筑前へ持ち去ってしまった。細川氏は重臣を筑前に派遣して要求し、ようやくのことで返還を受けることが出来た。忠興と如水は懇意の仲であったが、このことをきっかけに両家は義絶するに至り、それが解けたのは一〇〇年以上後の元文元年(一七三六)であった。
細川氏が入部した当時、その領地はかなり荒廃した状況にあったため、農村政策の基調は、一貫して荒れ地の開発などによる新田の拡大に置かれ、そのために必要な労働力の確保が重要な課題であった。特に、元和七年(一六二一)正月に忠興(同六年閏十二月二十五日より三斎宗立と号す)から家督を相続した細川忠利は、同年八月、どのような罪を犯した者であっても帰国の上は不問にする、といった内容の高札を立てるなど、他国へ走った者の帰国を奨励した。また、他領(多くは筑前や中国地方)からの走り者を優遇して迎え入れ、企救郡などでは、人口の八~九割が他領からの走り者で占められる村さえあった。
細川氏はまた、各種の鉱山採掘も手掛けた。とりわけ企救郡呼野金山は、元和七年に発見されたと言われ、最も多い時で五~六千人が採掘に従事していたという。また田川郡採銅所は、古くより銅の採掘が行われていたが、細川時代には金の採掘も行われた。ただ、これら金山も細川氏が肥後へ転封する寛永九年(一六三二)の段階までには、産出量もかなり減少していたようである。