豊臣系大名の代表格であった加藤清正は、関ヶ原合戦には九州における徳川軍の中心として軍功をあげ、戦後、家康より肥後一国(球磨・天草郡を除く)五四万石を宛行われた。賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一人として、また朝鮮出兵の際の虎狩りのエピソードからも知られるように、秀吉の家臣の中においても、武闘派として名高い清正であったが、家康の世となってからは、幕府に対して柔順に従い、家の存続を計った。しかし、その子忠広は、幕府の老中土井利勝が将軍家光の暗殺計画を企てている、という内容の密書を流し、世上を混乱におとしめようと謀った。家光は忠広のこの行為を糾弾すべく、寛永九年(一六三二)五月二十四日、伊達政宗・前田利常・島津家久・上杉定勝・佐竹義宣といった有力五大名を江戸城に呼び、忠広の密書を呈示して厳罰に処することを述べ、五大名の同意の上、加藤家改易が決定した。
細川氏転封の噂(うわさ)は、既に寛永八年十一月からあったが、加藤氏の改易が決定してからは、それがほぼ確実なものとなり、転封先はいまだ確定していなかったものの、隠居の忠興は肥後、長門・周防・筑前などを候補地として考えていた。そして、七月に肥後転封が確実なものとなり、十月四日になって正式な肥後転封の命令が藩主忠利に下ったのである。